20171029

2016岩手への旅~林丈二氏を追って~③  釜石:釜石市役所の送水口編 

みなさんこんにちは。
昨年、釜石に蛙を見に行って参りました。
などと言っている場合ではなく(錯乱)














あの伝説のロゼッタ送水口、
村上ロゴと名前入りの扇形スーパーレア物件を釜石市役所に見に行ってきたのでした。
はい、もう、すぐにお見せします。
(一年後に言う言葉ではないですが)

憧れ続けたこの送水口。
かの蓋の神様、林丈二さんも撮影し、そして触れたであろう送水口。

真上から。
こちらから見て左側はねじ式のまま。右側は差込のアタッチメントが付けられています。
文字は「SIAMESE.CONNECTION」
軌跡のピリオドを含む、文句なしの村上文字です。

普通壁埋設は、この高さから上に配管するものだと思うのですが、
床下にその一部が見えていました。小さい蛇口が見えるので、水抜が簡単なようにこうしたのかもしれません。

それにしてもぼろぼろですが、

この送水口、こちらから見て玄関の左側にあるのです。そして、

右側はどうなっているかというと、

こんなふうになっていて

このプレートが設置されています。

釜石市役所は、高台に在ります。
送水口はずっとこんなふうに「鉄の都」釜石市を見下ろして暮らしてきたのです。

この風景が、突然津波に襲われたときも
送水口はじっと見つめていたのです。



いくつかの映像をみました。


津波がどんどん迫りきたあの日の映像を。





釜石市役所は、非常に美しいデザインで、市民の誇りであり続けてきたことでしょう。



一つひとつの意匠も手を抜いていません。繊細かつ堂々たるつくりです。

左端の構造は階段室でしょうか。なんともモダンです。



送水口がある左側の壁は、こんなふうに
まるで編み物の目のごとく重厚なスクラッチタイルです。
しかし、このタイルも津波の水しぶきがかかり、
すぐそばの地面に押し寄せた木材がぶつかり、
たくさんの車両や機械の破片に晒されました。


この配管も無事ではいられなかったのかもしれません。

今日本に残る扇形送水口は、現在確認されている範囲で四つしかありません。
その中で、この釜石市役所のものは一番新しいものです。
村上製作所製品として、恐らく第一期のこの扇形プレート。
第二期であろう、新潟大和タイプへの進化の過程が垣間見えるこの送水口は、
消防設備史上でも非常に貴重なものと言えるでしょう。

今、釜石市役所は解体・新築を進めているようです。
建物の老朽化による心配を払しょくし、
より効率的な職場を建設し、
新たなる人々の希望の塔を打ち立てることは
物理的にも心理的にも大きな希望になることでしょう。

けれども、長い間ここから釜石市の発展も、悲しみも、見つめてきた
このスクラッチの壁と扇形の送水口を

どうにかして残していってほしいと思うのです。

話は少し戻りますが、
この送水口の存在を教えてくださったのは、かの路上観察の大家、蓋の神様と言われているあの林丈二さんでした。

市のイベントで来釜したときに発見したそうです。
そして、こんな送水口があるよ、と教えてくださいました。

当時、送水口のブログを作ってはいたものの、老舗二大巨頭であろう二つのメーカーの
CECは建設工業社さまとわかっていたものの、
もう一つのMのマークの持ち主はわかっていませんでした。

一方、横濱ビルに「MURAKAMI」という名前の入った送水口があることは
かなり昔から知っていたのです。

けれどもその二つを結びつける確証はありませんでした。
それを繋げたのがこの釜石市の送水口でした。

そして、その情報をもとに
駅からマンホールさんが株式会社村上製作所を探し当ててくださり
メールを送ったらすぐに「じゃあ来ていいよ」というお返事を下さって
たくさんの送水口のお話をして下さって

ああ、思い出すだけでも涙が出てくるのですが

その数日後には第一号の送水口を救出してくださって
イベント?やろうよ、やってみようよ、と背中を押して下さって

そのあともたくさんの貴重な送水口を、
自社のものではない送水口までも救出して
送水口博物館を設立なさったのです。
また、送水口ナイトというイベントも
実施し、継続することができているのです。

現在、いまはなき
旧ブリヂストン本社ビルの送水口や
旧大和百貨店の送水口や
最近では物産ビル別館の送水口たちを愛でたり、
送水口の話を楽しそうにたくさんの方々とすることができるのは

もとを辿れば
林さんが下さった、一枚の釜石送水口の写真と言えるのです。









もし、釜石市役所が解体されるのならば、
ぜひこの送水口を保存してほしい。


できれば、この錆びたドレンごと・・・。



いつかまたこの場所に行くことになるでしょう。


何を残して、何を変えていくのか。
それは部外者の言えることではありません。
けれど、奇跡のように、関わりをもつことができたこの地のために
もしできることがあれば、していきたいと思う気持ちは本物です。


2016年の夏。
復興は少しずつ進んでいました。



次に行くときまで、
私は私の仕事を、今いる場所でこの国の未来のために全うします。
次に行ったときに、
この送水口に再会するときに、恥ずかしくないように。

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